Print it black !
かなり当たり前の事だが、印画紙は白である。ものによってはベージュっぽかったりするけれど、まぁひっくるめて「印画紙は白」と言っていいだろう。
画を描くときのように(オレは描けないけど)、白いキャンバスに色を載せていくイメージは写真でも同じである。モノクロ写真の場合には色はほとんど無いので、多くの場合はグレーだけの濃淡によって印画紙上に画像を表現する。
白から始まって淡いグレー(つまりハイライト部分)、ある程度の濃度のあるグレー(いわゆる中間調)、濃いグレー(要するにシャドウ部分)、メッチャ濃いグレーはほとんど黒でディープシャドウである。
印画紙に投影した光の量が多いほど、現像後の画像のグレーは濃くなる。つまり白の上にどれだけ光(グレーのもと)を載せるか、という構造で、そう考えると光の鉛筆で重ね塗りしているような感じでもある。
なんにせよ、白から始まり、濃くして濃くして濃くして黒に至るという仕組みは、絵画でもモノクロ写真でも同じなのだ。
だが「ホントにそうなんだろうか」と、ある日のオレは思ったのだった。
もちろん、印画紙は白く、光を当てるほどグレーが濃くなるのは事実。それに疑問はない。
が、いつの頃からか、「まず白ありき」というのがどうにも不自然に思えてきてしまったのだ。
はっきりと自覚したきっかけが何だったのかは覚えていないが、もしかするとアンセル・アダムスの著書だったのかも知れない。アダムスの著書で「ビジュアライゼーション」という概念に触れてから、「白に始まり黒に至る」事の不自然さの正体が見え始め、ある時「やはりオカシイ」と確信したのであろう。
すなわち、写真という「画」を作る事は、白い印画紙を前にしてようやく始まるのではないと言うこと。
写真を撮らんとするとき、そのシーンを前にして、あるいはそのシーンを求める以前から、やがて印画紙上に描かれる「画」を自分のイメージの中で描く事が、写真を作ることの始まりであると(大げさだけど)オレは思い至ったわけだ。
はたして撮影時に見ているシーン、写真に描かれるシーンは、「白に始まり黒に至る」のであろうか。
あるいは撮影とはなんら関係ない日常のシーンは、「白に始まり黒に至る」のであろうか。
ひとそれぞれ感じ方はあるだろうが、日常のオレには「中間調に始まり白と黒の双方に至る」のがシーンである。また、モノクロ写真を始める前と始めてからしばらくも同じであった。
瞳孔や脳によって調整・平均化された適度な明るさがあり、それよりも明るい部分がハイライトであり、中間より暗い方向へシャドウが進んでいく。
写真の撮影に当てはめてみれば平均測光であり、中間グレーを基準にした明暗の把握方法を日常生活では行っている。カラー写真だけを撮っていた頃は、写真撮影での測光と日常の明暗把握の概念は一致していたわけだ。
モノクロ写真を始めたばかりの頃は、白い印画紙に光の筆で塗り重ねるように黒を載せていく作業がプリントだと思っていた。実際に作業自体はその通りに違いない。つまり「白に始まり黒に至る」の構造だ。
だが、そこにある矛盾と「光」という事の捉え方の間違いに幸いにして気がつき、「画」は「黒に始まり白に至る」のであると分かった。
印画紙に光を投影するのは単なる作業である。化学反応によって出来上がる画像を得るための、作業光に過ぎない。
画に必要な光は他でもない、被写体に降りそそいでいる「光」である。
光がなければ世界は純黒であるはずだ。
何もない世界、何も始まっていない世界は純黒であるはずだ。
そしてそれがあらゆるシーンの始まりである。世界は純黒から始まるのである。
純黒から始まった世界で白髭のジジイが「光あれ」と叫んではじめて、最初のシーンが見られたのだ。
光が当たり、物体はそれを反射する。わずかな光だけを反射している部分はディープシャドウであり、もう少し反射光が増えればシャドウ。人間の目が普通の明るさと感じる程度に光を反射している部分は中間調。
当たる光と反射率、それに応じて人間の目やフィルムが受けとめる光の量が変わり、その大小と印画紙上の濃淡が結びつけられる。
その概念がビジュアライゼーションであり、写真感剤でそれを実行する仕組みがゾーンシステムである。
印画紙の「白」に「黒」を重ねるのではなく、純黒の世界に光が降りそそぎ白へと至る「シーン」を印画紙上の「画」として描くのがモノクロ写真なのだ。
始まりは「黒」、そして「白」に至る。
そのためには、印画紙上で得られる「原初の黒」を知らなくてはならない。
オレが最短時間最大濃度法を暗室技法の基礎に置くのは、白や中間調ではなく「黒」こそがモノクロ写真の出発点だと考えているからである。
印画紙上での最大黒を知ることが、すなわちその「シーン」の原点を見ることなのだ。
あるシーンにおいて印画紙上でもっとも濃いグレーは、ネガフィルム上ではもっとも薄い部分から得られる。
すなわち「fb+f」、「フィルムベース+フォグ」である。
この濃度は現像後のネガフィルムで得られるもっとも薄い部分、いうなればネガフィルムの出発点である。撮影時にどれだけ露光したか、どう現像したかによってfb+fに濃度が加わる。シャドウ、中間調、ハイライトと濃度は上がっていき、プリント不可能なまでに濃くすることが出来る。
しかし、絶対にfb+fより薄くはならない。
そのシーンに純黒があろうが無かろうが、またシーンの中の濃淡の何処がネガフィルム上のfb+fになろうが、印画紙にとってはそこがもっとも濃いグレーである。
実に理にかなっている。
シーンの原初の姿である暗黒、ネガフィルム上で不変の濃度であるfb+f、印画紙上の最大黒。全ては「黒」を基点としているのだ。
唯一、印画紙だけは現実問題として「白」である。
なにもしなければプリントは真っ白のまま、本来あるべき姿ではない。
印画紙上の黒、すなわちシーンの原点は、求めなければ得られない。
ゆえに、全ての始まりである「黒」を目指してプリントしなければならないのだ。
Print it Black ! 黒を、世界の原初の姿を目指してプリントせよ。
Print it Black ! あらゆるシーンは黒から始まる。
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