ハイクオリティという砦
先日、photo.netで "The price of Silver prints?"というスレッドを読んでいた。
PN の書き込み量は膨大で全部の記事に目を通せなくなってしまっていて、よほど興味深いタイトルのものだけ拾っている。
件のスレッドは、インクジェットプリントに対して銀塩プリントの価格はどうあるものなのか、というような内容だった。
これは大したネタではないのでほとんど見過ごされる、というより食傷気味のハナシであり、いつもなら素通りしてるところなのだけれど、ちょっとだけ気になった。
食傷気味というのはデジタルvsアナログという構図なのだけれど、人々はハンドメイドを好むというくだりがあり、それには注意が必要だと考えたのである。
その事が疑問なのではなく、まったくその通りだからである。
やや疑問なのは、デジタルプロセスよりウェットプロセス(薬液使用による銀塩プリント作成という意味ね)の方が手間暇かかるかどうかはケースバイケースであろうというあたりか。
実際のところ、ウェットプロセスのプリントを作ることは非常に簡単だからである。画質として質が高く保存の利くプリントを作るのはかなり大変ではあるけれど、多階調のRCペーパーでぽんぽこぽんぽこプリントするのは、ちょっと慣れれば誰でも楽勝の朝飯前作業だろう。
んでもって、ここからがポイントなわけだが、雑な銀塩プリントと画像調整に手間のかかったデジタルプリントを並べたとき、雑で下手くそな銀塩プリントはハンドメイドで、素晴らしいデジタルプリントはマシンメイドで格下なのか、という引っかかりが起こる。
もうちょっと違う言い方をすると、自家処理の銀塩プリントである事でハンドメイドの価値だけが先行しかねない、という意味。
暗室遊びをやっている人は誰でも、友人や知人に自分が作ったプリントを見せたことがあると思う。あるいは写真が趣味で自分でプリントしてますと言ったことがあるだろう。またあるいは、写真が趣味でモノクロを主にやってますと言ったことがあるだろう。
もちろんオレもある。写真が趣味でモノクロを主にやってますと言うと、典型的な反応はこんな感じではないだろうか。
曰く、「自分で引き伸ばしとかするんですか? すごいなぁ」
あるいは、「本格的ですねぇ、すごいなぁ」
これらは社交辞令の場合も多々あるが、実はかなりの部分ホンネの反応ではないかと推測している。というのもオレ自身、自分が暗室遊びを始める前は「すごいなぁ」と思っていたからだ。
たしかに、人々はハンドメイドに価値を見出す。
しかしモノクロ銀塩自家プリントも、一見難しそうだけれど、やってみればどうと言うことはないのは、やっておられる方ならおわかりのハズである。同時に、ある程度やっておられる方なら、そこにはピンからキリまである事もおわかりだろう。
写真趣味家にとってハンドメイドに価値があるのは、ハンドメイドであることに意味がある、つまりハンドメイドゆえのハイクオリティが実現されている場合に限ると思う。ハンドメイドであるというだけそのものの楽しさや喜びや価値が大きいことはもちろん認めるけれども、ハンドメイドならではのクオリティが出せているか出せていないかの境界を敢えてひけば、そこから下の大部分はデジタルに駆逐されるに違いない。
ウチの両親はここ何年か旅行三昧で、同じ関東圏に住んでいる親戚などと一緒にあちこちの温泉に出かけたりしている。
オレのおじさんのひとりは長年地味な仕事をしてきてこれと言った趣味もなく、身体も弱く、引退して大病、ようやく回復したそうだ。そのせいか、旅行に連れて行ってもらうのが楽しくて仕方ないらしい。そして、ほとんどはじめてと言っていいだろう趣味を見つけたのである。
実はそれが写真だ。旅行の際にはデジタルカメラを必ず持ってきて、それこそ子供みたいにはしゃいで飛び回って写真を撮っているのだと聞いた。ウチに帰るとパソコンに読み込んで、カラープリンターで自家印刷。次の旅行の時にみんなに配って楽しんでいる。
オレはそれを素晴らしいことだと思っている。
もちろん、オレも何度かそれらのプリントを見せて貰っていて、正直に言えば写真のレベルはかなり低い単なる旅行スナップだ。風景も結構撮っているが、こんな素晴らしい風景がこうなっちゃいますか、というヤツ。ご自宅プリンターのデジタルプリントの画質には目を背けたくなる事も多い。
だが、おそらくそのおじさんはオレより写真を楽しんでいるだろう。そしてそのおじさんは、自分の足で出かけて自分で写真を撮る事が楽しくて仕方ない。
写真屋さんに出すのではなく、自宅でプリントしていることが楽しいようなのだ。
ハンドメイドの楽しみや価値はウェットプロセスだけには限らない。極端な話、松浦アヤヤが「ポン、ポンポン」とボタンを押すだけでも、なるほど自家プリントなのである。「ひとりで出来た!」
オレの父はAPSのコンパクト(IXUS L-1)で、写真屋さん45のサービスプリントが専門だ。このカメラは小さいけどよく写ると喜んでいる。IXUSはオレがプレゼントした物だが、APSはフィルムを買わなくちゃイケナイから大変だという。普通の135フィルムなら現像に出すと新品を1本貰えるからである。そのうちデジカメとプリンターをプレゼントすることにしよう。
この例はハンドメイドゆえのハイクオリティとは関係がなく、そもそもがウェットプロセスのハナシではない。銀塩写真が容易にデジタルに駆逐される境界の下のハナシだからだ。手軽な旅行スナップの大部分は手軽なデジタルカメラで撮影され、その先はお店プリントでもいいし手軽な自宅プリントでハンドメイド気分を味わうことも出来る。それは当然の成り行きである。
問題は、さて、我々の作っている銀塩プリントはその境界の上にあるのか下にあるのか、だ。今どうなのか、ごく近い将来にはどうなのか、である。
モノクロ銀塩写真はもはや、趣味家、愛好家のものである。写真の大部分はその境界の下にあったし、デジタル写真の技術的進歩や低価格化が境界線を猛烈に押し上げて来た。
オレはここ数年カラーをあまりやっていないが、今後ポジで撮るくらいならデジタルを選びたい。カラーで価値を見いだせるフィルムはネガである。デジタルはいずれポジの解像力を追い越せるだろうし、ポジの魅力であった色彩再現はデジタルにとって自由自在だ。ポジからのドラムスキャンを云々するのはかなりキビシイ抵抗であろう。しかしネガの階調再現幅は現状のデジタルカメラにはないし、しばらくは境界線が迫ってくることもないと思われる。現状、民生レベルでもっとも良いデジタルプリントはカラーネガで撮影してスキャンした画像から得られるはずである。
写真の大部分がカラーだからカラーが先行しているように見るだろうが、「モノクロ写真」もその例には漏れない。デジタルモノクロ写真が銀塩モノクロ写真を駆逐する境界線はこの先急速に高くなってくるだろう。実際、すでにかなりの部分は境界の下にあるとオレは思っている。先述したような、「へぇ、すごいなぁ」という単なるハンドメイドの価値によって、洗い流されず残っているのだ。
先日、家族旅行にモノクロはないな、と某所で書いたばかりだが、これはとうの昔にカラーに駆逐された分野で別問題。オレが思い描いている図では、いわゆるモノクロスナップの大部分が今すでに、境界の下にある。よく言ってストリートフォトグラフィ、いわゆる街角スナップ、日常スナップの類だが、銀塩フィルムで撮影しウェットプロセスでプリントを作成する意味を感じられないものを多く目にするからである。つまり、ハンドメイドゆえのハイクオリティというウェットプロセスの必要性がそこになければ、デジタルに駆逐されるのが、クヤシイと言えなくもないが当然に自然な流れだろうと思えるのだ。
デジタルではなく銀塩モノクロフィルムで撮影する価値はどこにあるのだろうか。
ひとつは、現状のデジタルカメラでは得られない階調再現幅の広さに違いないが、他になにがあるだろう。
そうした価値がないレベル、あるいはそれが必要のないモノクロ写真であれば、デジタルカメラで撮影する事も可能なのだ。
ウェットプロセスで作ったプリントとデジタルプリントを比較して、なるほどこれはウェットじゃなければ作れないというプリントでなかったら、それは遠からずデジタルに駆逐されるであろう。ましてウェブ画像などのデジタルデータが最終目的なら、そもそもウェットプロセスが必要ない。
誰でも、なにかを始めようとする時は、「なにか」を見て、「それ」をやろうと思うものである。我々の作るプリント、あるいはウェブ画像が誰かの目に触れ、その誰かが有り難いことに写真をやろうと思ってくれた時、我々のプリントやウェブ画像がデジタルプロセスでも作成可能なものだったなら、つまり境界の下にあったのならどうだろう。銀塩モノクロ写真という文化は継承され得るのだろうか、銀塩モノクロ写真のマーケットは維持されるのだろうか。
いや、いずれウェットプロセスによる銀塩モノクロ写真はすっかりデジタルに駆逐されるだろう。
ウェットプロセスゆえのハイクオリティというのは、いわば、我々銀塩モノクロ写真趣味家が守っていかねばならない砦なのだ。
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