「なに」は「どう」より先

先日、明治村というところに友人らと一緒に、合計3人で行ったのだった。
こういうのって結構面白くて、それぞれがそれなりに撮り慣れているから、同じ所を一緒に歩いていても、目をつけるところ、撮影するところなどが異なる。へぇ、そこをいきますかぁ、なんて感心する事も多い。
ボクはあまり気にしないけれど、一緒にいる誰かが先に撮ったところは、自分でもいいなと思っても敢えて撮らないとか、そういう事もあるみたいね。

ところで、こういう時の撮影では、なんにも成果が無いとカッコワルイ。
ずば抜けて良いヤツが撮れるかどうかは被写体や光線との出会いも必要なのでわからないが、それなりの、という抑えのカットは必要である。

この日、明治村の敷地に入って少し歩いているうちに、笹があちこちに生えているのが分かった。笹には品種が多く、不勉強にして具体名はわからないのだが、冬でもあるし、綺麗に隈取りが出ている(寒冷期の特徴である)。
これをひと目見れば、モノクロで画になるのは明白であろう。
もしこれが、隈取りのない品種や隈取りのない時期の笹だったら、背景から笹の葉を浮き出させるのは至難の業である。もしやるなら、グリーンのフィルターを使って葉を明るく出すとか、そういう不自然な表現になったかもしれない。その場合、背景にある他の植物の緑も明るくなるのだから、画面構成にはより苦労するだろう。
これ幸い、である。笹が生えてるのを見て、内心、とりあえずこれでカッコが付くと思った。


その事を頭に入れて置いて、たまたま撮りやすい株が撮りやすい位置にあったのでレンズを向けたというわけ。この株はそもそも地面より立ち上がっているので、被写界深度によって背景と切り離しやすいうえに、宙に浮いている葉の部分は隈取りがあるのだから、さらに周囲と切り離しやすい。
画面内のバランスを取り、絞りを適切に選べば、そもそもの被写体の図柄だけで、それなりに見れるようになるのは撮らなくても分かる。
要するに、笹の葉に隈取りがあり、だからモノクロとして画になりやすいというだけ。
そういうのを普通に撮れば、普通に画になるんだと思う。モノクロで撮ったらどういう画になるかという、そういう目でまわりを見ながら散歩していればいいだけの事であり、モノクロフィルムを詰めている時には、そういう目になっていて当然だろう。
この時は望めなかったが、光線の助けが有ればもっといい画になったかもしれない。

言ってみれば、撮るには撮ったが抑えの1枚みたいな感じ。
でもまぁ、当たり前というか月並みだし、あんまり重要視していなかった。この日は他に、ちょっと気持ちの入ったカットも撮れたからだ。しかし残念ながら、そのカットは納得のネガではなかった。
そこで、抑えの1枚が登場するという次第。

ところが、このプリントはちょっとウケがいいみたいなのだ。立体感があるかららしい。 どうやったこういうプリントが、と言われた。
それで逆に気になってしまったんである。

このプリントでは、特別なテクニックはさして無い。若干のブリーチも使っているし、画面の3分の1くらいは背景のトーンを整えるために焼き込んだりしているのだけれど、大部分は被写体そのもの通りの画でしかない。
要するに、モノクロの目で見て、たまたま笹に目を留めてさえいれば、ほとんど出来上がってしまう「なに」だったのだ。それを何かのテクニックで「どう」かしたというモノではないんである。
プリントそれ自体の出来不出来、というわけではないんだよね。

上記の例は、モノクロ写真的に「画」になりやすい被写体、というハナシだったのだが、もっと本質的なところで、常日頃、この「なに」と「どう」についてオレは頻繁にクチにしている。
実際、オフラインミーティングなどで言う口癖のひとつが、 だったりする。
敢えて、写真愛好家とか写真趣味家と言った括りを取り払えば、いちばん大切な写真、いちばん好きな写真というのは、おそらくは恋人との写真、子供の写真、家族の写真、親友との旅行記念写真、などなど、そういったものではないだろうか。
芸術的な他人の作品より、ヘタでも少々ブレボケでも、大切な人や大切なペットの写真が、定期入れの中や、机の上のフォトフレームや、あるいは携帯電話の待ち受け画面にあるんじゃないだろうか。
オレ自身、いちばん好きな写真は昔見せて貰った軍服姿の祖父の写真だったりするし、いちばん好きな写真集はアンセル・アダムスでもマイケル・ケンナでもなく、本田美奈子さんの写真集だと公言している(この場合、本田美奈子さんは撮影者ではなく被写体なわけだが)。

モノクロ写真をやっていて、写真愛好家仲間とハナシをしていると、富士山の写真を撮るのに同じ場所で同じアングルで、砲列のように望遠レンズを並べている集団を馬鹿にしたり、ああいうのは嫌いだといった声をよく耳にする。
オレも、だいたい同じように感じている。自分では絶対ああいう集団のひとりになりたくない。 しかし、それ以上に、オレはありきたりな富士山の写真は大好きなのだ。
富士山は日本国内はもちろん、世界中全部のなかでも有数の魅力的な被写体だろうと思うし、ましてオレは日本人である。霊峰富士の雄壮な姿を「自分で」写真に収めたいという願望には100%同感なのだ。
富士山がそれなりに写っていれば、もう記号として、それはすっごい風景写真なんである。 月並みとかそういう事ではない。 子供の運動会の写真なんて月並みだと、他人が言うのは簡単だが、当の親御さんにとっては全く月並みな写真なんかじゃないのだ。
自分の子供、自分の孫、自分の家族、恋人、大切なペット、親友。自分の家、自分の愛車。 富士山、京都の紅葉、その他なんでもいいけれど、写真の好き嫌いが閲覧者の主観でしかない以上、閲覧者と撮影者が同一人物であろうがなかろうが、閲覧者の個人的な感情や想いの向かっている「なに」を、「どう」撮ったとか「どう」プリントしたといった技術面が凌駕することは生半可な事ではないんである。

個人的でなく、一般的な認識でもそうだ。 若いフォトグラファーは、年輩の方がありきたりの風景写真を撮るのを馬鹿にする傾向があるように見受けるけれど、美しい風景が魅力的であることは否定出来ないはずである。
オレですら、難解な前衛写真よりも100万人が撮ってそうな紅葉の方がよっぽど好きだ。 はっきり言えば、写真愛好家達のフォトブログの類や、場合によってはハイアマチュアの写真展なんかで見かけるモノクロプリントよりも、普通に絵はがきにありそうな風景写真の方がよっぽどマシだと思う事が多い。

街角スナップ、あるいはストリートフォトグラフィと言い直した方が良いけれど、それだって同じだ。 どんなに高いカメラ・良いレンズでシャープに写っていようが、トーンの整った綺麗なプリントであろうが、そこに興味深いなにか、それが人なのかモノなのか事象なのかはともかく、何か「写されるに値する」「見る・見せるに値する」特別な要素が無かったら、魅力的な写真とはならないはずである。
人の作品を見せて貰い、意見を求められたときオレは、「良い写真だね」と切り出す事もあるし、あるいは、「良いプリントだね」とコメントを始める事もある。
後者のケースでは多くの場合、「写真としての魅力には欠けるが・・・」と注釈が付くことが多い。


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